"死"について書くよ。
ぼくらの人生はね、"死"についてぼくらがもっている概念によって、本っ当におおきく様変わりするんだよ。
"死"ってなに???
"死"のあと、ぼくらはどうなるの???
ぼくらは、"死"のことを、ぼくらの人生の外側、ぼくらの人生が'終わったあと'ってとらえるよね。
もし、そんな風にとらえているとしたら、それは、どうしてだろう。
ぼくらが、"死"を、ぼくらの人生の一部であると認識したとしたら、ぼくらの人生観は、どんな風に変わるだろう???
おれがこの問いを投げてみたいと思ったのは、おれも含めて、なんだけど、人って、自分の人生を、いつも、深いところで、自分の"死"と結びつけて考えているんじゃないか、って思ったからなのさ。
なにが言いたいのかっていうと、端的に言うよ、めんどくさいからさっ。
おれたちの行動の動機の根本に"死"との対峙があるとするなら、"死"についてのおれたちの考え方、価値観みたいなものが変わったら、おれたちの人生観、人生のあり方そのものが、根本的に変わるよ、っていうこと。
"死は、人生の一部"なんじゃないの、って思うの。
おれは、輪廻転生とか、意識の永遠性について言っているんじゃないの。
(このことは、おれの強い関心事でもあるから、ブログに書いたり、ワークショップみたいな場で話したいと思っているよ)
おれたちがね、"死"というものを、おれたちの生活、人生と切り離すのではなく、おれたちの生活、人生の、ごくありふれた一部である、ってとらえると、"死"というものを特別にとらえることなく、人生のサイクルに取り込まれているごく自然なプロセスであるっていうことになって、それがね、結果的には、おれたちの生きる姿勢を、より自然な、リラックスしたものに還してくれるの。
おれは、ここで書いたことをあなたに押しつける気は、まったくないよ。
"死"が、誰にでも訪れる、避けられない出来事なら、どんな風に解釈してもいいんだし、おれは、"死"っていう出来事を、おれたちが朝起きて、食べて、寝て、起きてっていう、ごくありふれた日常の一部のようにとらえなおしたとしたら、おれたちの人生には、深刻さなんていらないし、語弊あるかもしれないけれど、もっと勝手きままに、お気楽に、リラックスして、自由に、おおらかに生きていいと感じて、実際、そんな人生を生き生きと生きはじめるんじゃないか、って思うの。
そのあり方はね、自分の人生にとどまらないよ。
触れ合う人の生を自然と尊重するようになるから、その人、とっても喜ぶよ。
この触れ合いを、"袖触れ合うも多生の縁"って言うんだろうね。
なにを書きたいのか、わからなくなってきたけれど、"死"についてのとらえかたが変わると、ぼくらが日常、体感している、経験している生々しい"生"って思っているもののとらえ方が変わり、自由自在、変幻自在になるよ、っていうこと。
魔法使い、みたいにね。
ねぇ、知ってる???
ぼくらは、忘れているかも知れないけれど、本当は、すっごい魔法使いなんだよ。
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Today's Photo:
"'生"は、永遠。ぼくらが'生'と思っているのは、変化という幻想にすぎいない。"[Central Park, New York](21st September 2011)
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