ぼくがどうして、セス・ブック 個人的現実の本質 ~ 日々の問題を解決し、人生をを豊かにするための具体的で実践的なテクニック ~ についてブログに書きつづけているのか、どうしてお茶会をひらいてまでぼくがこの本をおすすめしたいと思っているのか、どうしてぼくがこの本をそこまで大好きなのか(笑)、ぼくがこの本とめぐり逢った頃の自分と対話するような素直な気持ちで書いてみたいと思います。
ぼくは、自分自身について、自分の人生について知りたいという探求心がもともと強いからだと思います。
ぼくの人生を振り返ってみると、ぼくが自分自身について知りたいという衝動に駆られるときはたいてい、人との関係性になにかが起こった時でした。
この本とめぐり逢った当時も、そしていまも、ぼくの人生を突き動かす鍵となっている3つの関係性があります。
その3つの関係性とは、次の3つのことです。
1. 自分自身との関係性を変えていきたい。
ぼくは、自分にこんなにつらくあたるのではなく、本当は自分という存在をそのままに受容したい。
2. 女性との関係性を変えていきたい。
ぼくは本当は、女性との関係性を通じて、自分自身を発見し、ひとりでは体験することがない世界を体験したい。愛の本質とはなんなのかを知りたい。ふたりで歩んでいく人生を通じて、ふたりでどんな人生を創造していくことができるのかを知りたい。ふたりがひとつになることによって出逢う多くの人たちの人生に、よりおおきな愛と喜びをもたらす人生にしたい。
3. 自分と自分の人生、神、宇宙との関係性の仕組みを知り、それを変えていきたい。
なぜ、自分の人生や世界がこのようになっているのか、その理由を知りたい。変える力がぼくにあるのなら、それを変えていきたい。
ぼくを突き動かしているこの3つの関係性について書いている時、とりわけ、2つめに書いた関係性、女性との関係性についての鍵について書いている時に、おおきな怖れがぼくのなかから出てきました。
このぼくの怖れについて、自分に素直になって書いてみたいと思います。
ぼくは本当は、女性との関係性を築いていきたいのではなく、自分自身のことをよりよく知りたいがために、女性との関係性を求めているのではないか。
ぼくのことを愛してくれる女性にめぐり逢ったとしても、ぼくの意識はいつも、ぼくの内側に向かっているから、結局は、その女性に寂しい思いをさせてしまい、その女性はぼくのもとを去ってしまい、やはりぼくは、女性との深い関係性を築くことなどできないのではないか。
ぼくの気持ちは本当は、その女性に対する想いよりは、自分自身に向けられたものではないのか。
そんな考えにとらわれてしまい、女性との関係性に積極的になれない自分がいます。
そして、そのほかに、ぼくが本当に知っている真実とは異なりますが、ぼくのなかにすっかり根付いてしまっている信念があります。
それは、"自分を愛することは愛ではない。相手を心から想い、自分を差し置いてでも相手に尽くしたいと思う心が愛である"、というものです。
ぼくが未熟すぎて、この愛についての考えが、ぼくという存在のなかに溶け込んでいないのか。
それとも、この愛についての考えは、ぼくが本当は知っている真実とは違っているから、ぼくという存在はこの考えを溶け込ませようとしていないのか。
ぼくには正直、それがぼくにとっての真実なのか、いまでもわからないし、迷ってしまうこともあります。
ぼくが自分の人生のなかに女性を寄せつけないのは、ぼくのなかに愛についての迷いが存在しているために、女性との関係に積極的になれないでいるのかもしれない、と思ったりもしています。
ぼくが愛について、女性との関係性について、完璧さを求めすぎていて、ぼくの存在は、完璧さを求めること自体、愛の本質から遠ざかっているということを、ぼくの人生体験で伝えようとしている気がしています。
ぼくはたいてい、人生でなにかうまくいかないことがあると、それを創り出した原因も、それを解決する鍵も、自分のなかに存在していると信じて自分のなかを探そうとします。
この本の原書とめぐり逢った頃のぼくは、ぼくの人生を変えていこう、好転させようというトーンではなく、どちらかというと、こんなつらい人生になってしまった原因はなんなのだろうか、という強い探求心からこの本の情報を読み込んでいました。
女性との関係がうまくいかないぼくにはどんな問題があるのだろう、とか。
女性との関係がうまくいかないということはぼくのなかにどんな信念があるのだろう、とか。
女性との関係がうまくいかないのは、ぼくの両親が離婚していて、母親がつらい想いをしている姿を見て育ったから、ぼくも父親のように、ぼくの結婚相手を悲しませてしまうかもしれないから、女性との関係性に消極的なんだろう、とか。
原因を知って、その原因をつくっている根本を変えれば、未来も変わってくるだろうと思い、この本を読んでいました。
この本の原書とめぐり逢った2002年の頃もそうでしたが、いまでもぼくの人生を突き動かしているのは、ここに書いた3つの鍵です。
1つめの鍵と3つめの鍵についてぼくが抱いていた迷いは、いまとなってはかなり解消され、迷いはほとんどなくなりました。
そして、いまでは1つめの鍵と3つめの鍵についての迷いが解消されていくにつれ、2つめの鍵に対するぼくにとっては当てはまらない間違った考えや信念がぼくの意識に明るみになり、女性との関係性についてのぼくの頑なになった考えや信念が溶けはじめているのを感じています。
2つめの鍵についてのぼくの考えや信念は、より柔軟になってきています。
これからの人生で、女性との関係性がよくなり、女性との深い関係性を築いていけるだろう、愛する女性と伴に人生を歩んでいくことができるだろう、というよりは、女性との関係性についての自分のこだわりが少なくなり、とにかく自分の感性のままに生きていこう、という風に、自分自身に対する見方が変わり、自己受容感が高まるという変化を体験してきました。
いずれは、ぼくと伴に人生を歩んでいく女性が現れるだろうし、たとえ現れなくても、そんな人生もありだよな、という感じで達観して人生を見ている自分がいます。
2つめの鍵を錠前に差し込み、そのドアの向こう側に待っている人生をあきらめたというよりは、導かれるようにその扉の向こう側に進んでいくことがぼくにとっては自然で、ぼくらしい人生を歩めるし、もし、ぼくが本当に愛し、ぼくのことを本当に愛してくれる女性とめぐり逢うとしたら、その女性は、そんな自然なぼくのことを素敵だと思ってくれるだろうと考えています。
愛する女性とめぐり逢ったときに、素の、自然な自分を見せていくことができるのか、自分でもまだ受け入れきれていない自分の姿を、その女性に見せることができるのか、いまでも怖いと思っている自分がいますが、隠そうとするよりは、自然な流れのなかで現れてくるものはどうしようもないし、そんなぼくの真の姿を見てその女性がぼくのことをどう感じようとも、ぼくはその女性を愛することにすればいい、と思っています。
ぼくがこの本と10年前にめぐり逢った時に受けた衝撃はとてもおおきかったのですが、それ以来、ぼくの人生が劇的に変わったというよりも、ぼくの存在のなかに、ぼくにとって心地よい流れで、セスが伝えるメッセージが浸透していった、という表現がいまのぼくにはしっくりきます。
10年という時の流れのなかで、ぼくがぼくらしい、ぼく自身に心地よいあり方で生きていくことができるようになってきました。
生きるのがラクになったと、ぼくは最近のブログによく書いていますが、それは、ここに書いたような流れに誘われ、自分の感性に従い生きてきた結果だと思っています。
ぼくがぼくらしく、ぼく自身に心地よいあり方で生きていくことができるようになってきているいま、ぼくの過去も、未来も同時に変わってきている気がしています。
"パワーのポイントは、現在にある"
という、この本全体を貫いてセスが伝えるメッセージの意味が、ぼくという存在全体に浸透してきているからです。
ぼくの人生を突き動かしている3つの鍵は、適切なタイミングが訪れるたびに、適切な扉の錠前に差し込まれ、その扉の向こう側に待っている人生へと、ぼくを誘いつづけてくれています。
3つの鍵が誘う人生を体験している自分がそれぞれ存在していて、それぞれのぼくが、もうすぐある地点で合流し、溶け合い、融合していくイメージがぼくには見えます。
そのなかでも2つめの鍵が誘った人生を体験しているぼくは、戸惑いながら、迷いながら、それでも自分を見捨てることなく人生を体験しようとして、少し遅れ気味なのだけれども、もう少しで合流地点を訪れようとしている。
2つめの鍵が誘った人生を体験しているぼくの足音が、いまにも聞こえてきそうな気配を感じています。
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Today's Photo:
"あなたはもう、扉の向こう側に行くことができる"[The Chalice Well, Glastonbury, England](17th October 2007)
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