新年、明けましておめでとうございます。
すでに正月の三が日も過ぎておりますが、元旦に感じたことを書いてみたいと思い、この記事をしたためております。
今年の元旦も、伊勢神宮に参拝してきました。
私は毎年元旦、直感的にここだ、と感じる場所に赴きまして、その地で、その年が自分にとってどんなテーマを持った年で、どんな課題がありそうで、どう対処していくことが望ましいのかを感じる日としております。
昨年は、「拓ける」というテーマの年でしたが、今年は、「流れる」、「花咲かせる」という感じの年になるようです。
「流れる」、「花咲かせる」とは、どういう意味なのか、私が直感的に受け取ったことをそのまま書いてみたいと思います。
「流れる」、「花咲かせる」ためには、いつも自分が「正位置」にいることが大切であり、正位置というのは、自分にとってブレない軸、その軸のうえに自分があることをいつも確かめなさい、ということのようです。
そのためには、自分を人との比較の上でなにかを見据えるのではなく、あくまで、自分自身の感性にいつも照らし合わせて、自分の軸を感じていなさい、ということのようでした。
いま、世の中は情報が膨大です。自分で閉じない限り、垂れ流し状態で膨大な量の情報が流れ込んできてしまう時代です。
そんな時代には、自分の軸、自分の存在感、向かう方向性を、自分のなかに持ち、いつも太陽のように感じていることが大切です。
これから私たちは、自分の基準で選別できるしなやかな強さを備えていくことが必要な時代になっていくようです。
その選別は、自分という存在の中心が教えてくれます。
ただ、自分の内側から湧き出る感覚を感じて生きること、その感覚に従って生きることは、どちらかというと、これまでの時代においては、メインストリームではなかったため、その感覚を取り戻すことは、これから私たちが自分らしい、自分本来の人生を生きていくことを望むなら、どうしても必要な感覚と思われます。
これが、「流れる」、「花咲かせる」ために、「正位置にいる」ということの意味のようです。
次に、「流れる」ということの意味です。
これは、今回、伊勢神宮の内宮を参拝していたときに、体験として、なんとなく入ってきました。
内宮の神殿に向かう石段の下に着くと、多くの参拝客が並んでいます。神殿の真向かいの位置から神殿に向かい、手を合わせたいからです。
同時に、時間に余裕がない人たち向けに、横をすり抜け、神殿の真向かいからは少し外れた、斜めの位置から神殿に向かい手を合わせるための道が空けられています。この道を通ると、一気に、神殿前までたどり着けます。
私は、この多くの人たちの横をすり抜ける道を選ぶことは、「流れる」ことであると直感し、一気に神殿前にたどり着く道を選びました。
斜め方向から神殿に手を合わせた後、横に移動すると、神殿の全景を見ることができます。この位置から、ゆっくりと神殿を眺めることができました。
「流れる」とは、自分本来の目的がわかっているなら、その最短距離を行くルートというものは必ず存在し、そのルートは、自分の目的がわかっていれば、乗り遅れることなく、すんなりと、そのルートを昇っていくことができる、ということを現していると感じました。
この日の私は、内宮の神殿をとおして、天照大神に向かい、手を合わせることが目的でした。
その目的は、神殿の真正面からでなくても叶うことでした。そして、神殿をゆっくりと眺めたいなら、横に移動した位置から、神殿の全景を眺めることができ、その位置からも手を合わせることもできます。
またこの日、私は寝坊してしまい、数時間遅れで旅をスタートしたため、移動時間を短縮したいと思っていました。
神殿真正面から手を合わせることは目的ではなかったため、混んでいる流れを避け、横に用意された階段を昇ることで、あっという間に手を合わせる場所に到着できました。
この「流れる」ということは、自分が本当はどうしたいのかを自分で明確にしておくことによって、選択の瞬間が訪れたときには、迷わず、やってきた流れに乗っていくことができる、ということだと感じました。
また、流れが来るときというのは、物事が動きはじめ流動的になり、さらに流れが速くなることでもあるようです。
大切なのは、流れが来たらすぐにその流れに乗る、ということのようです。その流れというのは、彼の地へと向かわせる、ということでもあるようです。彼の地、というのは、自分が生まれてきた目的や使命、さらには、自分の生まれ星からやってきた仲間たちとの再会、というテーマも含まれているようです。
乗るべき流れかどうかを判断する基準は、その流れが自分のハートの周りにあり、自分のハートと共鳴するかどうか、それを自分の判断ポイントとするとよい、ということでした。
愛する人とのめぐり逢いについても、出逢ったときのハートの鼓動の共鳴がシグナルなのだそうです。
次に、「花咲かせる」という言葉の意味は、どうやら、私が向かっている方向が、私にとっての北極星には向かっているから、その方向に進んでいけばよく、そのためには、みずからの努力によって、花咲かせなさい、という意味だと理解しました。
「花咲く」ではなく、「花咲かせる」だったことは、私にとっては大変意義のあることに思えました。
そのままなにもしないでいて自然と「花咲く」のではなく、北極星に向かっている私自身が、「花を咲かせる」ことをしてください、という意味に思えたからです。
「花咲かせる」タイミングだから、花咲かせてごらんなさい、流れとタイミングは合っているから、その方向であなたらしく努力していってください、ということだと、私は理解しました。
また、これは私がよく感じることでもあり、私にとっての成功法則のようなのですが、私が天命の周りにあり、なにかをするときには、私の心を人への奉仕に向ける、ということが大切なようです。
そしてこれは、世の多くの人の考え、価値観とは違うかもしれませんが、私が受け取ったのは、自分にとっての正しい道を進むことが実は、自分にとっての安心、安全な道だ、ということです。一般的には、社会、世の中のトレンドに乗るなど、自分自身と相談したり、自分の内側に尋ねることをせず、こたえを外側に求め、そこに安心感を求める世の中になっている気がするのは、私だけでしょうか。
また、流れに乗り、花咲かせるときには、過去の体験や、場合によっては人との関係性も手放していくことが必要なときもあります。
そんなときに大切なことは、「立ち止まり、かみしめよ」ということなのだそうです。
立ち止まり、かみしめることは、それまでの人生の全体験、生い立ちに感謝することであり、同時に、受け流していくことでもあるそうです。
それからこれは、私個人的なことかもしれませんが、流すことのなかには、先祖たちの誇りをも洗い流すとき、ということでもあるようです。
誇りというものも、私たちが人生を前進させていくためには、役に立たないものなのかもしれませんね。
「あなたの生命が胎動をはじめる時」
2013年、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
土井 英明 拝